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Alfred Stieglitz

アルフレッド・スティーグリッツ

2025年以来、「アメリカ」という単語をニュースで耳にしない日はない。報じられるのは、変わりつつあるアメリカ、そして世界の姿である。だが、そもそも私たちは、アメリカについて何を知っていたのだろうか。そうした疑問から、今シーズンはアメリカの現代アートのはじまりに立ち返ってみることにした。

 

今回取り上げるアルフレッド・スティーグリッツは、「近代写真の父」と称されるアメリカの写真家である。しかし彼は、優れた作家であると同時に、もう一つの顔を持っていた。写真を芸術として位置づけるだけでなく、アメリカに現代アートが根づくための環境をつくり上げた、プロデューサーとしての存在である。

 

RIVORA Spring Summer Collection 2026のART T-Shirtsでは、初めての試みとして、二人の作家を二期に分けて紹介する。第一弾がスティーグリッツ、第二弾が、彼によって見出された画家マースデン・ハートレーだ。今企画は作品そのものだけでなく、アメリカにおける現代アートと写真が、どのような経緯で定着していったのかをたどることも視野に入れた。このサイトでは、その全容をライトエッセイとして構成する。

 

好奇心とお時間の許す限り、ぜひ読み進めてみてほしい。アメリカの現代アートと、写真がアートへと踏み出した瞬間について、ひとつの視点を得られるはずだ。

まずは、スティーグリッツについて見ていこう。

1|写真家としてのスティーグリッツ

1|写真家としてのスティーグリッツ

なぜ「近代写真の父」と呼ばれるのか?

​ アルフレッド・スティーグリッツは、1864年生まれのアメリカの写真家である。彼はしばしば「近代写真の父」と呼ばれるが、その理由は写真技術を進歩させたからではない。彼が成し遂げたのは、写真を「芸術」として認めさせたことだった。

 

 20世紀初頭、写真は記録や商業のための技術と見なされ、美術の世界からは距離を置かれていた。スティーグリッツは、その認識に真っ向から異を唱える。都市の風景や自然、雲といった身近なモチーフを通して、写真もまた作者の感覚や思想を表現しうることを示したのである。

 

 当時、写真を芸術として主張するための方法の一つが、絵画に近い表現を目指すピクトリアリズム(絵画主義的写真)だった。スティーグリッツ自身も、初期にはこの傾向の作品を制作している。しかし彼はやがて、写真は絵画の代替ではなく、写真にしかできない表現を持つべきだと考えるようになる。こうして彼は、加工や演出を排し、被写体をありのままに捉えるストレート・フォトへと方針を転換していった。

 

 今回Tシャツで選んだ作品群は、その変化を視覚的にたどることができる。

《The Terminal》(1893)や《The Railroad Yard, Winter》(1903)では、記録性と絵画的構成の間を揺れ動く初期の姿が見える。一方、《New York from the Shelton》(1935)や《Car 2F-77-77》(1935)では、即物的で透明度の高い視線が前面に現れ、ストレート・フォトの到達点が示されている。

1949.706 - The Terminal.jpg

Number : RA13-MUT001 -----------------------------------------

2|もうひとつの顔

2|もうひとつの顔

291galleryと「場をつくる人」

 スティーグリッツの重要性は、写真家としての活動だけでは語り尽くせない。

1905年、彼はニューヨークに「291」と呼ばれる小さな展示空間を開いた。名称の「291」は、会場があった五番街291番地に由来する。ここは商業ギャラリーでも、美術館でもなかった。

 291で開催された展覧会は、当時のアメリカではほとんど知られていなかった、ヨーロッパの前衛美術が中心であった。市場性や理解の有無は、ほとんど考慮されていなかった。ピカソやマティスといった作家も積極的に紹介した。後に美術館が担うことになる価値の選別や正当化を、291は制度の外側で、実験として先行して行ったのである。スティーグリッツは作品を作るだけの存在ではない。作品が生きるための「場」を構想し、立ち上げた人物でもあった。

 

 スティーグリッツの活動は、展示空間にとどまらない。1903年からは写真雑誌『Camera Work』を刊行し、写真と美術をめぐる新しい言語空間を作り出した。高品質な印刷による再現図版、批評的なテキスト、洗練された編集によって、作品を「読む」対象として提示したメディアだった。現代美術を理解するための語彙と視点が、ここで整えられていった。モダニズムや抽象、フォルムといった概念は、作品と同時に、言葉として紹介され、共有されていく。読者は、実際の作品に出会う前に、その「読み方」をすでに知っていたのである。

 一方で、『Camera Work』では、絵画や彫刻、写真とを同じ誌面上で扱った。こうすることで、スティーグリッツは、写真を現代アートとして世に問うための下地を、着実に整えていったのである。

1949.786 - New York from the Shelton.jpg

Number : RA13-MUT003 -----------------------------------------

3 | 美術館とスティーグリッツ

3|美術館とスティーグリッツ

 1923年、彼はボストン美術館から、自身の写真作品の寄贈のオファーを受ける。しかし、当時は、写真はなお記録や商業のための技術と見なされることが多く、美術館に収められる対象ではなかった。スティーグリッツは自分の写真が、資料としてではなく西洋美術史上重要な作家のゴヤやデューラーといった巨匠に並んで展示されるならばと、寄贈を決めた。これは写真コレクションにおけるアメリカでも最も早い一例である。寄贈作品には、彼のこだわりで作品に応じ、それぞれに微妙に異なる額装を行った。

 291という制度外の場で試みられてきた写真表現を美術として提示する実験は、ここで、美術館という制度の内部へと接続される。スティーグリッツは、寄贈の条件として、写真を展示し、語り、理解される環境が整えられることを求めたうえで、それを美術として公的な場へ送り出したのである。

1949.766 - Car 2F-77-77.jpg

Number : RA13-MUT002 -----------------------------------------

4|アメリカの現代アートを生んだプロデューサー

ハートレーへつながる視線

4|アメリカの現代アートを生んだプロデューサー

 スティーグリッツは自らの成功に飽き足らず、次の才能に目を向けていった。291に集ったのは、無名で、評価も定まらない作家たちだった。その中に、マースデン・ハートレーがいた。

 ハートレーは、ヨーロッパの影響を受けつつも、独自の感情や象徴性を絵画に持ち込んだ画家である。スティーグリッツは彼の作品に、アメリカならではの新しい表現の可能性を見出した

 スティーグリッツの仕事は、才能を「発見」すること以上に、その才能が育つ環境を整えることだったと言える。彼が蒔いた種は、ハートレーをはじめとする作家たちによって芽吹き、やがてアメリカの現代アートへとつながっていくのである。

※ 本稿の後半(第5章〜終章)は、来月20日前後に公開予定です。

続く章では、ハートレーの作品とともに、アメリカの現代アートが根を下ろしていく過程をたどります。

1949.840 - The Railroad Yard, Winter.jpg

Number : RA13-MUT004 -----------------------------------------

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