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Jonas Mekas

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“ 私が関心を持っているのは、人間の感情や顔です。人間の表情、とくに人がどうやって喜びを表すのか、幸せという表情をつくるのか、ということに私はこだわりつづけています。沈んだ表情や悲しみの感情については、他の人間にまかせるべきだと思いますし、あまり関心がありません。私は、人々が生を謳歌している様子をカメラに収めていきたいんです ”

                                                                                                                             Jonas Mekas

 

引用元:ジョナス・メカス(1997)『フローズン・フィルム・ブレームズ −静止する映画 ―』木下哲夫訳, フォト・プラネット編, 河出書房新社. p.52

今回ご紹介するのは、ジョナス・メカスの「Frozen Film Flames」という作品です。

この作品は彼の膨大な映像作品のなかの一場面を、スチール写真として切り出したものです。

いまから101年前の1922年のクリスマス・イヴにジョナス・メカスはリトアニア北東部にある小さな村、セメニシュケイに5人兄弟の4男として生まれます。

そんな彼が、遠く離れた地、アメリカで「アヴァンギャルド映画の父」と呼ばれるに至ったのは、一体なぜなのでしょうか?

メカスがこの世を去った2019年1月23日までの96年という時間のすべてを語ることはむずかしいですが、少しでもご紹介できたらと思います。

 

彼のしてきた経験を知ることで、作品が表面的なものではなく、物語として深くあなたに刻まれる記憶になると思います。

*

​さて、この写真は若き日のジョナス・メカス。手にしているのが16mmフィルムカメラのボレックスです。

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Jonas Mekas the image from the website "Jonas Mekas 100!" https://jonasmekas100.com/ 手にしているカメラが愛用していたボレックスの16mmフィルムカメラ。

彼がリトアニアを離れた理由。それは亡命です。1944年22歳の時、弟と共に国外逃亡でウィーンに逃げる途中で捕虜となり、ナチスの強制収容所に連行されます。終戦後は難民キャンプに移り、その生活のなかで詩作を行い1948年に詩集『セメニシュケイの牧歌』を発表するなど、詩人や編集といった言葉の世界で活動していました。1949年に叔父の計らいでアメリカのビザが申請可能になると、国際難民支援機構を通じてドイツからシカゴへ向むかう船に乗ります。ところが、長すぎる旅に心身ともに疲れ果てていたふたりは、途中で寄港したニューヨークで船を降り、ここで生活することに決めました。

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その後、まだ英語が話せなかったこともありコミュニケーションのためにと、16mmフィルムカメラ、ボレックスを入手します。ボレックスの操作は簡単で、ボタンを押すと撮影開始、離すと止まります。コマ撮りのように撮影することができるのです。つまり「Frozen Film Frames」が制作可能だったのも、コマ撮りされたフィルムだったということがあります。

そうして、詩作や映画雑誌の編集を行うなかで、当時ニューヨークに集うアーティストとの出会いがあり、友人となった彼らとの日常をボレックスに撮り溜めていったのです。

とはいえ、この頃はまだそれを編集して一本の映画にするという考えはなかったのかもしれません。メカスが自分の作品を発表するのは、彼が40歳になる手前で、むしろ彼の主な活動は、前衛映画と言われるジャンルの実験的な映画を上映し、保管する場を作ることでした。生涯その活動を続け前衛映画アーカイブを設立したほどです。自身の作家活動にとどまらないこうした活動履歴を見ると、「アバンギャルド映画の父」と呼ばれる理由に納得です。

メカスの友人たちとはこのような人たちでした。詩人のアレン・ギンズバーグ(作品中・左)、ジャック・ケルアック、そして、アンディ・ウォーホル。フルクサスの創始者であるジョージ・マチューナス、ナム・ジュン・パイク…。当時の前衛とされるグループの中にメカスはいました。1969年にオノ・ヨーコとジョン・レノンがパフォーマンス「平和のためのベッドイン」を行った際には、撮影のためにアムステルダムまで赴きました。メカスのフィルムには、ウォーホルとジョン・レノンが語り合う様子なども記録されており、それらからはあまり見たことのない彼らのプライベートな空気を感じることができます。

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彼らは紛れも無い友人であり、その交流が孤独を癒した一方で、メカスはいつも望郷の思いも抱いていました。『メカスの難民日記』という本があり、これが日本語にも翻訳されていますが、「難民」という言葉がメカスのアイデンディディにあることを忘れてはいけないのだと思い知らされます。ニューヨークに到着した日の日記と、それから約3年後の日記には次のように書かれています。

1949年10月29日

 昨日、午後10時ごろ、ジェネラル・ハウス号は進路をハドソン川に向けた。私たちはデッキに立ち、目をこらした。1352人の難民たちはアメリカを見つめた。網膜に残った記憶のなかで、私はまだ、あの光景を見つめている。この体験をしなかった人に、この感情もイメージも言葉で伝えることはできない。戦争のすべて、戦後の難民の悲惨と絶望と放心状態。その後で突然、夢と直面した。

 その信じられない美しさを見るには、このようにハドソン川から夜のニューヨークを見なくてはならない。(後略)

1952年6月17日

 ああ、友人たち、彼らはそろって町の人間。彼らにとっての自然とは、夏の海岸、週末旅行、バケーションだった。私にとっては、雨、風、吹雪、霧、露、そして逃れようのない厳しい労働の、永遠につづくシンフォニーだった。日の出前に起き、濡れて冷たい朝の草をかき分けて歩くうち、寝ぼけ眼にかすかに牛の群れが見えてくる。(後略)

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ジョナス・メカスは、1971年の夏、アメリカに渡って以来初めて、故郷のリトアニア、セメニシュケイに戻ります。この時の撮影が、不朽の名作であり、メカス作品の世界観を決定的に私たちに印象付けた『リトアニアへの旅の追憶』(1972)になります。

上の作品はその映画のワンシーンです。母や親戚が集まり、22年ぶりに帰ってきた息子2人(共にアメリカへ渡った弟と一緒)を歓迎し、歌を唄い、朝にはじゃがいものパンケーキを作りました。本当にプライベートな帰郷の日々が日記のように綴られる本作は、日記映画というメカスからはじまるジャンルの金字塔となりました。商業映画とは一線を画した日記映画という個人的な表現。他人の日記、他人の記憶だということはわかっているのに、人々はこの映画に居心地の良さを覚え、なぜか記憶を揺さぶられる。そんな共感を覚えてきました。

​メスは日本のインタビューで「Frozen Film Frames」について次のように語ったことがありました。

 “ 私にとっては、これらのイメージの一つ一つが日頃から親しんできたものばかりなので、むしろ私以外の人がこれを見て、どう感じるかに興味があります。実はパリの展覧会で、十点くらい売れた作品があるんですが、その売れた作品のほとんどが、もともとの企画で売ろうとしていた有名人のポートレイトではなくて、私にとっての個人的イメージに属するものでした。誰かの顔を撮っただけの写真を部屋の壁に掛けておいても自己の反映にはならないけれども、個人的なこだわりをイメージにした作品ならば、見る人も自分と作品を対峙させていくことができるのではないでしょうか ”

元:ジョナス・メカス(1997)『フローズン・フィルム・ブレームズ −静止する映画 ―』木下哲夫訳, フォト・プラネット編, 河出書房新社. p.47

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終戦後に亡命という道を強いられ、生まれ故郷を離れアメリカに移住した難民としてのジョナス・メカスにとって、友人を作るために手に取ったカメラ、ボレックスは、ペンの代わりだったのかもしれません。ニューヨークに到着した日の感情を「言葉で伝えることができない」と語ったメカス。でも、彼の日記映画にはその感情が刻まれている。そのようにして映画をはじめとしたメカス作品を見直してみると、優しさと光に満ちた風景は、安堵と恐怖とが表裏一体となった、奇跡的なものに見えてきます。そして、実は私たちの日常というのも、そう遠くない均衡の上に成り立っているのかもしれません。

​冒頭で紹介した言葉を最後にもう一度、メカス59歳で誕生した息子セバスチャンと愛猫とのシーンを捉えた作品を見ながら読み返したいと思います。

“ 私が関心を持っているのは、人間の感情や顔です。人間の表情、とくに人がどうやって喜びを表すのか、幸せという表情をつくるのか、ということに私はこだわりつづけています。沈んだ表情や悲しみの感情については、他の人間にまかせるべきだと思いますし、あまり関心がありません。私は、人々が生を謳歌している様子をカメラに収めていきたいんです ”

                                                                                                                             Jonas Mekas

 

引用元:ジョナス・メカス(1997)『フローズン・フィルム・ブレームズ −静止する映画 ―』木下哲夫訳, フォト・プラネット編, 河出書房新社. p.52

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2021年から世界中で Jonas Mekas 100! という生誕100周年を祝うイベントが開催されています。

今回、Tシャツを作成するに至ったのも、その流れがあってのことです。ご子息のセバスチャンと引き合わせていただいたのは、Frozen Film Framesのアイデアをメカスさんに提案された、「ときの忘れもの」の綿貫さんをはじめとするスタッフの皆さんです。

どうもありがとうございました。綿貫さんたちとのご縁については、Spring Summer Collection 2024のときにまた書きたいと思います。

Jonas Mekas 100!

Special Thanks 

Sebastian Mekas

Fujio Watanuki

Reigo Watanuki

Reiko Odachi

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