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Die Brücke

芸術家集団 ブリュッケ

“ 彼らが正気と狂気との境からもたらしてくれたものは、狂気を知らない人間を戦慄させ、嫌悪させ、やがては驚嘆させ、納得させるほど美しい ”                                                                                                                        坂崎乙郎『夜の画家たち』より

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今シーズンのRIVORA ART T-Shirtsは「ブリュッケ」のキルヒナーの初期木版画から4作品をご紹介します。「ブリュッケ」とは複数の芸術家たちからなるグループ名です。1905年にドイツのドレスデンで誕生したこのグループの中心的なメンバーが、当時25歳のエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーでした。

「ブリュッケ」とはブリッジつまり「橋」のことです。諸説ありますが、中でも彼らが影響を受けた思想家ニーチェの言葉に因んだという説には惹かれるものがあります。​それは「人間の偉大なところは、彼がひとつの橋であって目的ではないことだ」という言葉です。キルヒナーたちは、この「橋」になろうと考えたというのです。

 

ニーチェの言葉は、「目的」という終着点を目指すのではなく、常に過渡的な存在であることが大事だと伝えています。ここでいう「橋」とは、何かと何かをつなぐということだけでなく、何かに向かって生きる人間の比喩になっています。

 

キルヒナーたちは、19世紀から続くアカデミックな美術やフランスを中心に台頭した印象派という、すでに価値の決まった目的地に向けて、自らの創作をなぞるのではなく、まだ未完成な未来に向けて、ドイツに新しい芸術の風を吹かせようと意気込んでいたのです。

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Number : RA11-MUT001 ----------------------------------------- Original:Artsalon Fritz Gurlittでのブリュッケ展 by Ernst Ludwig Kirchner

そこで、彼らが取り組んだのが木版画でした。それはドイツに古くからある技法でありながら、何世紀にもわたって忘れられた表現技法でした。​それを蘇らせたのです。しかも、非常に荒々しいタッチでです。

 

丸みよりは鋭い鋭角を特徴とするブリュッケの木版画は、その後の彼らの油彩画にもつながる原点というべき作品群です。

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Number : RA11-MUT002 ----------------------------------------- Original:フリンクダンス by Ernst Ludwig Kirchner

木版画は、別のことにも使われました。彼らは自分たちの理念を紙に刷り、メンバーに勧誘するなど、新聞のようなメディアとしてそれを活用していました。結成から1年後には、エミール・ノルデがブリュッケに参加し、メンバーは増えていきます。

ただ、ブリュッケは当時のアート界ではほとんど理解されませんでした。理想主義的で自己中心的な性格と言われたキルヒナーは、やがて他のメンバーからも距離を置くようになり、グループも1913年に解散に至ります。ただ、同時にようやく彼らに対する注目も集まり始め、ドイツ美術の新潮流として、彼らは「表現主義」と呼ばれるようになります。しかし、1914年に欧州は第一次世界大戦に突入し、メンバーたちもこの戦争へと巻き込まれていくのです。

続く第二次世界大戦までの間にドイツで起きた政治的変化はここで語るまでもありませんが、1937年には芸術史上に残る大きな出来事が起こりました。「退廃芸術展」です。これはナチスドイツがキュビズム、ダダイズム、シュツレアリスム、そして表現主義といった前衛的な芸術を排斥することを目的に、これらに「退廃」の烙印を押して展示するというものでした。この展覧会にはキルヒナーの作品も多数展示されました。

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Number : RA11-MUT003 ----------------------------------------- Original:" Ball " by Ernst Ludwig Kirchner

皮肉なことに、彼は自身が愛したドイツから評価されることは生涯ありませんでした。事実上、彼に名声を与えたのはアメリカ人でした。しかし、それもキルヒナーがこの世をすでに去った後のことでした。​​

真っ直ぐに芸術に生涯を捧げたキルヒナーのことは、一見するととても不器用な存在に思えてしまいます。彼自身は、他者を退け、孤高に生きていました。しかし、どうしようもなくその作品は魅力的で、他者を強く引き寄せる力を持っているのも事実です。

 

実は、私はキルヒナーをずいぶん昔に一冊の本で知りました。冒頭にある坂崎乙郎著『夜の画家たち』です。この本の中ではドイツ表現主義を中心とした芸術家が複数紹介されていますが、キルヒナーのことはそこまで好きになれず。他の画家の展覧会は積極的に観にいっても、今一つでした。それからしばらく彼らを取り上げる展覧会もなく、時は過ぎていきました。

 

それが、2019年に飛び込んできた衝撃的なニュースがきっかけで、再び彼らのことを思い出すことになったのです。それは、ブリュッケの元メンバーで、退廃芸術の烙印を押されたはずのエミール・ノルデが、実はナチス党員であったというものでした。ニュースでは、当時のメルケル首相がノルデの作品を執務室から撤去するというシーンが流れてきました。

 

その時、とっさに頭に浮かんだのがキルヒナーのことでした。キルヒナーの作品をもう一度見直さないといけないと感じました。

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Number : RA11-MUT004 ----------------------------------------- Original:"E. Backhausen 3世の蔵書票" by Ernst Ludwig Kirchner

キルヒナーは退廃芸術展に600点あまりの作品を没収されています。そして、ノルデもまた、その作品を1000点以上退廃芸術として没収されています。だから、人々は長い間ノルデが前衛芸術家として体制に反対した側の人間であると、信じて疑うことがありませんでした。ドイツの精神を体現した作品と言われ、党員として理念に共感していたというノルデでさえ、非ドイツ的なものとして迫害されたという、この複雑さ。

 

この出来事は、ブリュッケのメンバーが生きた時代が、まさにそうした困難な時代だったのだということを強く認識させるきっかけになりました。そして、困難な時代の中で「橋」となることを目指して、新しい芸術を模索しようとしたという事実が、どうしようもないほどにかけがえのないものに感じられてきました。

キルヒナーは生涯2400点もの木版画を作ったといわれています。ひたすらに木を掘るという、地道で地味な作業に時間をかけ、それで何かを変えようとした。

結果的に、彼らの活動は「表現主義」という新たな潮流を生み出し、芸術後進国とされていたドイツに前衛芸術の動きをもたらしました。今日、ブリュッケは「表現主義の嚆矢」と位置付けられています。ちなみに「表現主義」とは自分の内部にある感情や精神の表出を重要視するのが特徴とされ、「印象主義」が外界から受けた印象を表現するのとは対照的な流れとして、現在の美術史では理解されています。

今から考えてみれば、「表現主義」は自分のからに閉じこもった孤高の表現などではなく、外の空気の不穏さから身を守り、自己の世界に広がる美しさを表出しようとしたのだ、ということがわかります。

​今回とりあげたのはたった4作品の木版画ですが、そこには、切実な希望や願いが込められています。だからこそ、見るものを立ち止まらせる力を宿しているのだと思います。

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